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2026/10/03 塩屋阿弥陀堂の三地蔵(塩屋三義人と湯ノ内山論)
塩屋阿弥陀堂の三地蔵享保5年(1720)、播磨国赤穂(あこう)郡塩屋村と有年(うね)庄(ともに今の兵庫県赤穂市)の村々との間で入会地を巡る山論が持ち上がり、騒動の首謀者として塩屋村の五郎太夫・仁兵衛・権左衛門が打首になりました。後に村人たち […]
2026/09/27 北坂地蔵(相生村九助と家潰し騒動)
北坂地蔵天明7年(1787)、赤穂藩領の播磨国赤穂郡相生(おお)村(今の兵庫県相生市)において、困窮する村人たちが商家6軒を打ちこわす「家潰し騒動」が起きました。藩は同村の九助ひとりを頭取と断じて死罪に処し、北坂峠に梟首したこと […]
2026/09/01 義人弥治右衛門之碑(庄司弥次右衛門と旗本青山領逃散)
義人弥治右衛門之碑元文3年(1738)、旗本・青山丹後守幸覃(よしひろ)の知行地である摂津国川辺郡・武庫郡8か村(今の兵庫県尼崎市・西宮市)のうち、6か村の百姓が他領に逃散し、あわせて代官・安東茂右衛門の悪政を大阪町奉行所に訴えました。こ […]
2026/06/30 蔵沢翁碑(松山藩代官・吉田蔵沢の顕彰碑)
蔵沢翁碑南画家としても知られる松山藩士・吉田蔵沢は、宝暦13年(1763)から18年にわたって代官として民政を担い、正直明白の徳をもって領民を感化したといいます。81歳で亡くなると大法寺に葬られ、昭和9年(1934)には境内に「 […]
2026/06/02 吉田庄太夫正礼顕彰碑(熊野一揆と吉田庄太夫の切腹)
吉田庄太夫正礼顕彰碑紀州藩の奥熊野27か村と新宮領との村替えを巡り、安政2年(1855)から4年(1857)にかけて、反対した村民たちによる「熊野一揆」が勃発しました。江戸から木本代官所に派遣された吉田庄太夫は、独断で村替えの中止を決めると […]
2026/05/26 義民弥治右衛門碑(小泉弥治右衛門と大蔵樋)
義民弥次右衛門碑水はけが悪く降雨のたびに被害を受けていた河内国茨田郡藤田村(かわちのくにまったぐんとうだむら)(今の大阪府守口市)では、慶安2年(1649)、庄屋の小泉弥治右衛門が幕府に無断で大蔵樋を設けましたが、そのために一家5人が磔 […]
2026/05/19 木津勘助之像(中村勘助と中之島の蔵破り)
木津勘助之像江戸時代前期の「寛永の飢饉」に際し、摂津国西成郡木津村(今の大阪府大阪市)の中村勘助は、幕府の米蔵を破って困窮する人々に分け与え、そのために死罪になったとも、彼が開発した「勘助島」に流罪になったともいわれます。勘助は後に […]
2026/05/13 重根屋伊七の墓(重根屋伊七と黒江村越訴)
重根屋伊七の墓享和3年(1803)の飢饉に際し、紀伊国名草郡黒江村(今の和歌山県海南市)の漆器職人であった重根屋伊七(しこねやいしち)は、椀に用いる糊の原料である続飯米(そくいまい)の名目で食糧の融通を受けようと藩主に直訴し、そのまま […]
2026/05/07 五味藤九郎碑(京都代官・五味豊旨と上高野用水)
五味藤九郎碑江戸時代前期のこと、禁裏御料だった山城国愛宕郡高野村(今の京都府京都市左京区)には高野川が流れていたものの、標高差があるため水不足に苦しんでいました。京都代官・五味藤九郎豊旨は、難工事の末に「上高野用水」を開削し、今日に […]
2026/04/20 義民木村勝右衛門顕彰碑(木村勝右衛門と延享一揆)
義民木村勝右衛門顕彰碑延享3年(1746)、重税に悩む但馬国朝来郡与布土庄越田村(たじまのくにあさごぐんよふどのしょうおったむら)(今の兵庫県朝来市)庄屋の木村勝右衛門は、惣代として江戸の勘定奉行・神尾春央(かんおはるひで)に出訴し、生野代官 […]