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2026/06/02 吉田庄太夫正礼顕彰碑(熊野一揆と吉田庄太夫の切腹)
吉田庄太夫正礼顕彰碑紀州藩の奥熊野27か村と新宮領との村替えを巡り、安政2年(1855)から4年(1857)にかけて、反対した村民たちによる「熊野一揆」が勃発しました。江戸から木本代官所に派遣された吉田庄太夫は、独断で村替えの中止を決めると […]
2026/05/26 義民弥治右衛門碑(小泉弥治右衛門と大蔵樋)
義民弥次右衛門碑水はけが悪く降雨のたびに被害を受けていた河内国茨田郡藤田村(かわちのくにまったぐんとうだむら)(今の大阪府守口市)では、慶安2年(1649)、庄屋の小泉弥治右衛門が幕府に無断で大蔵樋を設けましたが、そのために一家5人が磔 […]
2026/05/19 木津勘助之像(中村勘助と中之島の蔵破り)
木津勘助之像江戸時代前期の「寛永の飢饉」に際し、摂津国西成郡木津村(今の大阪府大阪市)の中村勘助は、幕府の米蔵を破って困窮する人々に分け与え、そのために死罪になったとも、彼が開発した「勘助島」に流罪になったともいわれます。勘助は後に […]
2026/05/13 重根屋伊七の墓(重根屋伊七と黒江村越訴)
重根屋伊七の墓享和3年(1803)の飢饉に際し、紀伊国名草郡黒江村(今の和歌山県海南市)の漆器職人であった重根屋伊七(しこねやいしち)は、椀に用いる糊の原料である続飯米(そくいまい)の名目で食糧の融通を受けようと藩主に直訴し、そのまま […]
2026/05/07 五味藤九郎碑(京都代官・五味豊旨と上高野用水)
五味藤九郎碑江戸時代前期のこと、禁裏御料だった山城国愛宕郡高野村(今の京都府京都市左京区)には高野川が流れていたものの、標高差があるため水不足に苦しんでいました。京都代官・五味藤九郎豊旨は、難工事の末に「上高野用水」を開削し、今日に […]
2026/04/20 義民木村勝右衛門顕彰碑(木村勝右衛門と延享一揆)
義民木村勝右衛門顕彰碑延享3年(1746)、重税に悩む但馬国朝来郡与布土庄越田村(たじまのくにあさごぐんよふどのしょうおったむら)(今の兵庫県朝来市)庄屋の木村勝右衛門は、惣代として江戸の勘定奉行・神尾春央(かんおはるひで)に出訴し、生野代官 […]
2026/03/16 嘉母神社(竹内立左衛門と禎瑞新田の開発)
嘉母神社伊予西条藩の郡奉行・竹内立左衛門(たけのうちりゅうざえもん)は、天明2年(1782)、藩命による干拓工事を通じて「禎瑞(ていずい)新田」を完成させ、同年「嘉母神社」が創建されました。立左衛門が寛政3年(1791)に病没す […]
2026/01/14 義民宮内之碑(宮内清兵衛の義民伝承)
義民宮内之碑天保7年(1836)、飢饉の中にあった丹波国桑田郡上久保村(今の京都府南丹市)の宮内清兵衛は、減租を求めて園部陣屋に直訴したものの、簀巻(すまき)にされて川に捨てられ亡くなったといいます。昭和に入ると、地元の人々は「義民 […]
2026/01/06 長松寺(志賀甚兵衛と貞享の越訴)
長松寺貞享元年(1684)、旗本・谷家が支配する丹波国十倉領(今の京都府綾部市)の江戸奉公人144人は、重税で困窮しているとして領主に直訴するとともに、その代表が幕府評定所にも越訴しました。頭取は志賀甚兵衛と伝えられ、7人が死 […]
2025/12/29 延宝義民顕彰碑(藤田猪兵衛・おこんの義民伝承)
延宝義民顕彰碑江戸時代前期、園部藩領の丹波国船井郡仏主(ほどす)村では、重税に苦しむ人々のため、藤田猪兵衛・おこん夫妻がそれぞれ直訴に及び、入牢させられたといわれています。この義民伝承をもとに、戦後「和知浄瑠璃」の演目のひとつが創作さ […]